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Khane-ye doust kodjast? 友だちのうちはどこ?

イラン映画 (1987)

自国イランのファジル国際映画祭で審査員特別賞(作品賞はノミネートだけ)と監督賞を獲得した他、ロカルノ国際映画祭でも3部門で受賞した作品。キアロスタミ監督が死去した2016年には東京で『キアロスタミ全仕事』の回顧上映も行われた。この映画は、評価の高いキアロスタミ作品なのだが、私にはなぜ評価されるのか理解できない。確かに、本当なのか誇張されているのかは分からないが、イランにおける大人と子供の間の歴然とした距離感は痛いほどよく分かるし、友だちのために家を捜し廻るアハマッドの姿は感動的。何よりもラストが素晴らしい。それでは何が気に入らないのか? それは、最も大切なラストが「作為的に創り上げられた結果」だという点にある。映画を一過的に観ていると気付かないかもしれないが、級友のノートを返そうと必死に努力しているアハマッドが、最後の最後になって突然、理由もなく、簡単にギブ・アップする。それは、「そうしなければ、最後の感動に到達できない」から、ギブ・アップさせたようにしか見えない。今まで私を感動させてきた映画は、最後の1コマを生むために、隅々まで計算し、多くの伏線を見事に結実させていた。それに比べて、この脚本はあまりにご都合主義で、構成に美しさがない。

カスピ海に近い山間のコケール村の学校に通う8歳のアハマッド。隣の席には、歩いて30分ほどかかるポシュテから通っているモハマッド・レザ・ネマツァデがいる。そのモハマッド・レザは、宿題を3回続けてノートではなく別紙に書いてきたことで、今度やったら放校だと教師から強く叱られる。ところが、その日、アハマッドはなぜかモハマッド・レザのノートを持ち帰ってしまう。帰宅してそれに気付いたアハマッドは、何を言っても耳を傾けてくれない母の目を盗んでノートを返しに行く。ところが、初めて訪れたポシュテでは、誰に訊いてもネマツァデの家が分からない。偶然会った級友は、モハマッド・レザのいとこの家を教えてくれる。しかし、そこに行くと、いとこは10分前に父親とコケールに出発していた。アハマッドは、なぜがそれ以上捜すのをやめ、いとこを追ってコケールに戻るが、結局いとことは会えず仕舞い。代わりに、祖父の自分勝手な言動に悩まされるが、ネマツァデと名乗る男がポシュテに戻るので、その後を追って再びポシュテに行く。しかし、その男はモハマッド・レザの父親ではなかった。そこにいた子に聞くと、ポシュテのその地区にはネマツァデ姓が多いという。しかも、その子は、モハマッド・レザを知らない。ただ、モハマッド・レザかもしれない子が、枯れ木のある鍛冶屋の近くにいると教える。アハマッドは枯れ木のある家まで行くと、木工職人の老人が出てきて、ネマツァデという子が5分前に帰ったと言い、そこまで連れて行ってあげると言う。ただ、アハマッドはなぜかモハマッド・レザの名を言わないので、このネマツァデが、モハマッド・レザかどうかは分からない。老人の案内でアハマッドは1軒の家の前まで来るが、彼はなぜか何も調べずにその家ではないと判断し、なぜかそれ以上訊き回ることもせず、コケールに戻る。アハマッドは、ノートを返せなかった罪滅ぼしに、モハマッド・レザのノートにも宿題を書いてやる。翌日、寝坊したアハマッドは、教師の宿題チェックがモハマッド・レザに達する直前に間に合い、「宿題付きのノート」を返すことができた。

主役のアハマッドを演じるババク・アハマッドプール(Babek Ahmed Poor)は、映画のロケが行われたコケール村出身のズブの素人。演技というよりは「あるがまま」の姿。


あらすじ

朝。3年生のクラス。教師が現れないので、生徒たちが騒いでいる。そこに教師が遅れて入って来る。開口一番、「何やっとる! 静かにすると約束したはずだろ。5分も留守にできないのか。先生が遅れると、すぐにこの有様だ」〔いかなる理由があるにせよ、教師は遅れた理由を(校長に呼ばれたとか、会議が長引いたとか)、説明すべきだろう。この最初の対応から、この教師が如何に専横的かが分かる〕。教師は全員に宿題を見せるよう命じる。誰かが、「アリ・ヘマティがいません」と言うと、「静かに。勝手に発言するんじゃない」と制止する〔居丈高〕。そして、その発言は無視し、アハマッドのノートから宿題のチェックを始める。そして、隣のモハマッド・レザ・ネマツァデに移ると、「何だ、これは。宿題はノートに書けって何度言ったら分かる? 何回くり返させる気だ? 何回だか言ってみろ」と叱る(1枚目の写真)。ネマツァデは指で3まで数えるが、黙っている。「指は見た。だが、はっきり口で答えるんだ」。「3回」。「大きな声で」。「3回」。「3回言われて、まだやらないのか。なら、懲らしめのために裂いてやる」。そう言うと、教師はネマツァデが書いてきた宿題の紙を破り捨てる(2枚目の写真は、それを見ているアハマッド)〔あまりに過剰で、教育的指導の枠を逸脱している〕。ネマツァデは顔をうずめて泣き出す〔パワハラそのもの〕。それでも、この教師の虐めは続く。そして、何回ノートに書けと言ったかを しつこく尋ね、涙ながらに「3回」と言わせると、「3回言われても、守らない。なぜなんだ?」と初めて理由を訊く〔もっと前に訊くべき〕。ネマツァデの返事は、「いとこの家に行った時、忘れちゃったんです」というもの(3枚目の写真)。すると、いとこが、「僕が持ってます」と擁護発言。しかし、この教師は、最初、ネマツァデが嘘をついていると疑い、次に、それが本当だと分かると、生徒たち全員に、帰宅したら、まず宿題をやり、終わったら鞄に入れろ。そうすれば、ネマツァデのようにノートを忘れてくることもないと、ネマツァデを辱める訓示をする。そして、ノートに書くようしつこく言う理由として、英語字幕では「discipline」という言葉を使う。「修養、規律」といった意味だ。そして、最後のダメ押しは、「今度やったら、学校を放り出すからな」というネマツァデへの最後通牒。観ていて非常に不愉快になるシーンだ。
  
  
  

学校が終わり、生徒たちが飛び出してくる。その時、ネマツァデが転ぶ。先ほどのことで同情したアハマッドが近寄って、ネマツァデに手を差し出す(1枚目の写真、矢印はノート)。その後、アハマッドはネマツァデをすぐ近くの井戸に連れて行き、すくった水でズボンの上から拭く(2枚目の写真)〔何のために、ズボンの上から? ころんで怪我をしていれば、ズボンをめくって直接肌を洗うべきだろう。土ホコリによるズボンの汚れは水をつければかえって浸み込んでしまう⇒この「洗った褐色のズボン」を、後で、ネマツァデの家を捜す時の目安とするための脚本上のトリック〕。ところで、井戸の場面の最後では、ネマツァデは自分のノートをしっかり手に持っている。しかし、この後の映画の展開では、アハマッドがネマツァデのノートを間違って家に持ち帰ってしまう。いったいいつ、そんなことが起きたのだろうか? 『友だちのうちはどこ?』は、アハマッドが、ネマツァデの放校を防ぐため、その日のうちにノートを届けようとする映画なので、「アハマッドがノートを2冊持ってきた理由」が釈然としないのは、興を削ぐ〔意図的に作り出された無理なシチュエーションに思えてならない〕
  
  

家に戻ったアハマッドは、最初、母親から赤ちゃんの世話をいろいろとさせられる。そして、中庭(物干し場)に面した木のベンチの上で鞄からノートを出した時(1枚目の写真)、ネマツァデのノートを持ってきたことに気付く。どうしようかしばらく考えたアハマッドは(2枚目の写真)、「母ちゃん、ぼく、モハマッド・レザのノート、間違って持ってきちゃった。返しに行かないと」と話しかける。最初、母は息子の言ってることなど全く耳に入らない。アハマッドが3度「母ちゃん」と呼んで、ようやく、「何だい?」。アハマッドは2度説明する。母の返事は、「宿題をしてから、遊びなさい」〔息子の言うことなど聞いていない〕。「遊びたいんじゃない。ノートを返したいんだ」。母の返事は同じ。彼女の頭には、「息子は遊びに行きたがってる」という固定観念しかない。それでも、アハマッドはくり返す。「ぼくがノートを持ってきちゃたんだから、返さないと。じゃないと、罰せられるんだ」(3枚目の写真)。「宿題をなさい」。観ていると、愚かな母親にも腹が立つが、母から離れたところで同じ話をくり返すだけのアハマッドの優柔不断で消極的な態度にも腹が立つ。
  
  
  

アハマッドは、ようやく、洗濯物を干している母の前まで行き、要望をくり返す。それでも、愚かな母親は、「宿題をなさい」としか言わない。学校の教師といい、この地域社会では、子供の言うことはすべて「聞く価値のないこと」で、大人だけが偉いんだという観念が染み付いているとしか思えない。アハマッドは一旦は宿題を始める。すると、すぐに母が用を言いつけて邪魔をする。耐えられなくなったアハマッドは、ようやく実力行使に出る。自分のノートとネマツァデのノートを母の前に持って行き、「母ちゃん、これ見て。このこと言ってるんだ。両方ともそっくりだけど、こっちがモハマッド・レザので、こっちがぼくのなんだ」と並べて見せる。この段階で、母はようやく「息子は遊びに行きたがってるんじゃない」ことに気付く。そして、「それで?」と訊く。「これ、返さないと」。「明日、返しなさい」。「それだと、明日、放校にされちゃうよ。だから、今返しにいかないと…」。「放校されるなら、その子が悪いのよ」〔アハマッドの説明の仕方が悪いので、母も誤解する〕。「でも、僕が間違って…」。「気付かなかったの?」。「そっくりだったから」(1枚目の写真)。「なら、明日返せばいいでしょ」。「ダメだよ、今日中に返さないと」。「その子、どこに住んでるの?」。「ポシュテ」(2枚目の写真)。母は、遠過ぎるからと許可しない。それからの母は、元に戻って「宿題をなさい」の一点張り。見切りをつけたアハマッドは、母が赤ん坊を抱いていなくなった隙に、ネマツァデのノートを持って家から抜け出す(3枚目の写真)。以上、観ていると、アハマッドの説明の悪さが際立っている。特に問題なのは、「それだと、明日、放校にされちゃうよ」という言葉。英語字幕では「But tomorrow the teacher will expel him from class」。フランス語字幕では「Mais demain, le maître va le renvoyer de l'école!」。一言も、「明日、宿題のノートを提出しないと」という前提条件が述べられていない〔日本語字幕の「ノートに書かないと先生に退学にされるんだ」は、前半に勝手なプラスαを付けた誤訳になっている〕。これでは、母が「放校されるなら、その子が悪い」と応じても仕方がない〔日本語字幕では、母の返事は「先生のなさる事は正しいよ」。初めて観た時に違和感を感じたやりとりだが、違和感があるところには必ず誤訳がある〕
  
  
  

アハマッドは、コケールの村を抜けると(1枚目の写真)、ネマツァデが住んでいるポシュテの村を目指して斜面を登る(2枚目の写真、矢印)。2つの村は、イラン最北端のカスピ海沿岸のギーラーン州にかつてあった。しかし、1990年6月21日の大地震(M7.4)で壊滅的な被害を受けた。グーグルの航空写真で見ても、かつてのコケール村の場所(北緯36゜54’57.6”,東経 49゜29’4.2”)には何もない。その西にポシュテの谷はあり、直線距離は1.8キロほど。それほど遠くはない。3枚目の写真に映っているのが、かつてのコケール村なのかどうかは定かではない。
  
  
  

かくして、アハマッドは、生まれて初めてポシュテ村の入口に到着する(1枚目の写真)。粗雑な石段の中央に深い割れ目があるが、これは雨が降った時の排水路だ。テヘランの年間降水量は200ミリ強だが、カスピ海南岸では降水量はかなり多く、コケールの50キロほど北東のラーヒージャーンで年間1450ミリに達する。これだけ降れば、写真のように深くえぐれても不思議ではない。村の中は迷路のようになっていて、アハマッドはどちらに行ったらいいか分からない。2人目に道を訊いた女性は、ポシュテには4つの地区があると教えてくれたが、アハマッドの混乱が増えただけ。幸い、その時、同じクラスのモルテザがやってきた。「ネマツァデの家、知ってる?」。「あっちに降りて行った方じゃないかな」。彼は場所までは知らなかったが、「いとこの家なら知ってるよ」と前向きな返事をくれる。「ヘマティ?」。「うん」。「連れてってよ」。しかし、ミルクを運んでるからと断られる。代わりに教えてくれたのは、「彼の家はハネヴァルの急な坂にあって、家の前の階段の先が青い扉になってる」というものだった(2枚目の写真)。次のシーンでは、アハマッドが路地をどちらに行こうか迷っている。偶然見つけたおじさんにハネヴァル地区を訊くと、「そこを真っ直ぐ」。前に大人に訊いた時もそうだったが、アハマッドは教えてもらっても一言も「ありがとう」を言わない。大人もぶっきらぼうだが、子供も礼儀がなってない。坂を上がって行くと、一軒の家の門の隙間から褐色のズボンが干してあるのが見える。第2節の井戸の場面で、ネマツァデがはいていたのと似たズボンだ。アハマッドは勝手に中に入り、ズボンを触ってみる(3枚目の写真)。ネマツァデのズボンに違いないと勝手に確信したアハマッドは、ドアをドンドンと叩き、あるいは、「モハマッド・レザ!」と呼ぶが、聞こえるのは猫の鳴き声ばかり。近くの人にズボンのことを訊くが、持ち主が誰かは知らない〔誰だって、他人の家のズボンが誰の物かなんて分かるハズがない。誰のズボンではなく、なぜ、誰の家かと訊かないのだろう?〕。ようやく、ズボンの干してある家の女性が現れる。そして、そこがネマツァデの家ではないことが分かる。それでも、アハマッドは、「だけど、そのズボン、モハマッド・レザのだよ」としつこい。
  
  
  

アハマッドは、階段の先に青い木戸があるのを見つける。そこで、近づいていってノックしてみる(1枚目の写真、矢印)。反対側の井戸で洗濯をしていた女性の1人が、「誰を捜してるんだい?」と声をかけてくれる。ヘマティの家を捜しているハズなのに、アハマッドはなぜか、「モハマッド・レザ・ネマツァデ」と答える。当然、「そこじゃない」と言われ、アハマッドは「この辺りの青い扉の家だって」と言い直す。女性は、「そこはヘマティの家だよ」と教え、ようやくアハマッドも、「ぼく、彼に会いたかったんだ」とまともな返事をする。「コケールに行ったよ」。「いないの?」。「誰を捜してるの?」(2枚目の写真)。「ヘマティ」。「ヘマティの誰?」。「アリ・ヘマティ」。「出てったよ。5分前に。コケールへね」。「コケールから来たとこだよ」。「ほら、父さんと歩いてるのが見えるだろ」。アハマッドが振り返ると、遠くに2人の姿が見える(3枚目の写真、矢印)。ここからのアハマッドの行動は、愚かとしかいいようがない。つまり、井戸の女性は、ネマツァデの家は「そこじゃない」と答えた。「知らないね」とは言わなかった。だから、彼女がネマツァデの家を知っている可能性はある。なのに、アハマッドはそれを訊きもせず、ヘマティ父子を追ってコケールに向かって走り出す。アハマッドに何度も往復させることの演出上の効果は理解できるのだが、もう少し現実的にして欲しい。
  
  
  

かくして、アハマッドは、コケール村への最後の斜面を走り降りる(1枚目の写真、矢印)。結局、アハマッドは2人に追いつけなかった〔2人が時速4キロで歩けば、実質2キロとして30分。アハマッドは時速12キロくらいで走っているので10分。10分先行していても必ず途中で追いつくはず⇒これも、作為的な演出〕。アハマッドが村に着いた後、どこに行こうとしたのかは分からないが、すぐに祖父に呼び止められる。「どこに行ってた?」。「パンを買いに」(2枚目の写真)。買ったパンもないのに、この返事は変なので、祖父は、「訊かれたら、真面目に答えるんだ」と叱り、「ポシュテへ何しに行った?」と質問する。アハマッドは、ようやく「級友のモハマッド・レザのノートを返しに行ったの」と答える。「返したのか?」。「ううん、会えなかった」。すると、祖父は、急に「タバコを取って来い」と言い出す。それに対するアハマッドの返事は、最初の返事と同じで理解し難い。「パン屋に行かないと」(3枚目の写真)。確かに母からは、「宿題が済んだらパンを買っておいで」とは言われていた。しかし、それを無視してノートを返しに行ったのに、なぜ、祖父に「アリ・ヘマティを捜し出してモハマッド・レザの家を訊かなくちゃ」と言わないのだろう? この当たり前の言葉がないので、その後、いくら祖父が無理難題を強要しても、アハマッドへの同情が沸いてこない。ネットでは、この時の祖父の専横的な態度が問題視されているが、アハマッドの優柔不断はなぜ糾弾されないのだろうか?
  
  
  

アハマッドがいない間、ポシュテの村からやって来た男〔アリ・ヘマティの父とは別人〕が、鉄製の扉を売りつけようとするシーンが延々と続く。監督の意図に疑問が湧き始めた頃、ようやくアハマッドが戻って来て、「タバコなかったよ」と報告する。「お前が捜したのか?」。「母ちゃん」。「お前が自分で捜せと言ったんだぞ」。「パン屋に行かないと」。その時、鉄の扉を売りつけるのに熱心な男が、アハマッドの持っているノートを見て、「紙を1枚くれよ」と声をかける。「ぼくのじゃない。モハマッド・レザのだ」。「構わんだろ。たかが1枚だ」。「モハマッド・レザのだよ。返さなくちゃいけないんだ」。「なあ、坊主、1枚寄こせ」。「僕のじゃない。彼が先生に叱られちゃう」(1枚目の写真)。この無下な会話は、祖父の「大人の言うことを聞け」の一言で終わり、アハマッドのノートは男に奪われ、1枚破り取られる(2枚目の写真、矢印)。男は、さらに、ノートを下敷き代わりにして、扉2枚の代金として4000トマン〔4万リアル≒現在の10万円〕をアガ・カン・ネマツァデが領収した旨の「領収書」を書く。ネマツァデの名前が出てきたので、アハマッドは男に向かって何度も、「ネマツァデさんなの?」と訊くが、男は、他の男への売込みに熱心で、アハマッドは完全に無視される。そして、ロバに乗ると、扉を取りにポシュテに向かう。
  
  
  

アハマッドは、折角アリ・ヘマティを追って来たのに、今度は別人のアガ・カン・ネマツァデ〔アハマッドは何度も「モハマッド・レザ」と口にするのに男は無反応⇒父親ではないことは明白〕を追って、再び斜面を登って行く(1枚目の写真、矢印)。相手はロバに乗っているので、ついて行くのは大変だったが、アハマッドはポシュテの細い路地に入ってからも、姿を見失わないように必死で後を追う(2枚目の写真、矢印)。男は階段を降りて1軒の家の中庭に姿を消した。アハマッドがどうしようかと迷っていると、1人の見慣れない少年が鉄の扉を運ぶ手伝いをしている。男がロバに扉2枚を載せてコケールに向かうと、アハマッドはすぐに少年に話しかける。「ここは、ネマツァデの家?」。「誰をさがしてるの?」。「モハマッド・レザ」。「知らない」。「同じクラスなんだ」。「ぼくもネマツァデだよ。だけど、モハマッド・レザは知らない。ここにはネマツァデがいっぱいいるから。なんでさがしてるの?」。「ノートを返すんだ」。「その子の父ちゃん、ロバの荷車持ってる?」。「知らない」(3枚目の写真)。「羊は飼ってる?」。「知らない。そうかも。一度、教頭先生にミルクを持ってきた」。「ハンマーム〔公衆浴場〕知ってる?」。「知らない」。「鍛冶屋の家は?」。「ううん。コケールから来たんだ」。「鍛冶屋をさがすんだ。すぐそばだよ。家の下に小屋があって羊がいっぱいいる。そこで訊けばいい。家の近くには枯れ木があるよ」。これは重要な会話。ここで分かることは、①少年はモハマッド・レザのことは全然知らない、②モハマッド・レザの家では羊を飼っている可能性があるが定かではない、③少年が教えたのは鍛冶屋の家の場所で②とは無関係、の3点。これは、重要な点なので、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語の字幕で確認した。
  
  
  

アハマッドは、枯れ木を見つけ、羊が10頭ほど家の前の路地を歩いて行く。ここに違いない。そこで、「すみません」と何度も呼ぶ(1枚目の写真、手前に枯れ木の枝が写っている)。応答がないので、今度はドアを叩く。すると、木の滑り窓が上げられ、老人が顔を出す。「何だね、坊や」と訊いてくれたので、「ここ、ネマツァデの家ですか?」と訊く〔鍛冶屋を捜しているのに、なぜネマツァデ?〕。「どこだって言われたんだい?」。「木があるって」。「木なんかいっぱいあるぞ」。「枯れ木だって」。「枯れ木もいっぱいある。ネマツァデはここにはいない。だけど、彼のことはよく知ってる。彼の息子はさっき帰ったとこだ。坊やはあの子と同じクラスかい?」。「そうです。ここにいたの?」。「ああ」。「どこに住んでるか、教えてください」。「ハンマームは知ってるかい?」。「いいえ、ぼく、コタールから来たんです」。「じゃあ、ちょっと待ってなさい。一緒に行ってあげよう」。この会話のポイントは、①アハマッドは、一言も「モハマッド・レザ」と言っていない、そして、②この地区にはネマツァデがいっぱいいる、の2点。老人は、ペルシャの伝統的な木彫りの装飾窓や扉の職人だった。老人は、とどめなく話しながら、アハマッドには絶え難いほどノロノロと歩く。おまけに、途中の水飲み場で顔を洗ってアハマッドをイライラさせる(2枚目の写真、矢印)。辺りは、もう真っ暗だ。その時、老人は水飲み場に咲いていた小さな草花を1本摘み、「ノートに挟んでおきなさい」と渡す。アハマッドは、急ぐよう頼む。老人は、ネマツァデの家の近くの急な階段まで連れて行くと、ここで待っているからと1人で行かせる。アハマッドは真っ直ぐ降りて行き、家の下の通路を抜けて、言われた通り左に曲がり、最初の扉の前までくる。日本と違い、ポシュテでは一軒も表札などは付いていない。それなのに、アハマッドは扉をみると(3枚目の写真)、ノックもせずに引き返す。ここが、この映画で一番納得できない点。なぜ、この家がモハマッド・レザの家でないと判断したのか? さっきの少年は、鍛冶屋の家しか教えなかった。老人はアハマッドと同年代の子供のいるネマツァデの家まで連れて来てくれた。そして、何よりも、ノートを今日中に返すことは至上命題だ。ならば、なぜノックして、この家にモハマッド・レザがいるか訊かないのか? たとい違っていても、モハマッド・レザの家が分かるかもしれないではないか? なのに、なぜ、何もせず引き返したのか? 理由はただ一つ。ここでモハマッド・レザと会ってしまうと、映画の最後に用意されている素晴らしいエンディングが実現しないからだ〔あまりにも作為的〕。せめて、この家でも「知らない」と言われ、泣く泣く降参したのだったら筋が通るのに。悔いの残る脚本の不味さだ。
  
  
  

家に戻ったアハマッド。パンは買ってこなかったし、宿題もせずに夜遅く帰宅したので叱られたのかもしれない。しかし、映画は、アハマッドの前に夕食が置かれ、食欲のないアハマッドが断っているシーンから始まる(1枚目の写真)。アハマッドは奥の部屋に追いやられ、ノートに宿題を書き始める(2枚目の写真)。
  
  

明くる日。夜が遅かったせいか、授業が始まってもアハマッドは現れない。教師が宿題のチェックを始める。ノートをアハマッドに持っていかれたネマツァデは、宿題がやれていないので気が気でない。ネマツァデの2つ後ろの席のチェックが終わり、1つ後ろの席のチェックが始まる。そこには3人座っている。宿題のチェックは遂に3人目にかかる。絶体絶命だ。ネマツァデは「まな板の鯉」の心境だろう(1枚目の写真)。その時、アハマッドが遅れて入ってくる。アハマッドは、席につくとさっそく、「先生、宿題見た?」とネマツァデに訊く。「ううん」。「代わりにやってあるからね」。そう言って、鞄からノートを取り出して渡す(2枚目の写真、矢印)〔似ているので、間違って自分のノートを渡してしまう〕。ぎりぎり間に合って、教師はアハマッドのチェックに入る。ノートはネマツァデのものだったが、「これは、ネマツァデだぞ」と指摘されただけで問題は起きない。評価は「よし」。次いで、ネマツァデのノート。ざっと見た教師は、「よくできた」と褒める。ノートには、昨夜老人からもらった花が、押し花になっている(3枚目の写真、矢印)。エンディングは爽やかで、確かに優れているのだが…
  
  
  

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